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神戸芸能社の昔

本当に波乱万丈な人生だったのですね。


山口組興行部時代
昭和初期より神戸の吉原興行で経験をつんでいた山沖一雄が実務を担当した。山沖は1951年より山口組興行部の仕事を引き受けていた。1952年、田岡一雄は、田端義夫を山口組興行部の専属とした。田岡組長は歌謡界一の人気者美空ひばりの父親代わりになり芸能興行を行っていた。さらに映画界一の人気者鶴田浩二の興行を手がけようとして断られ、1953年1月には、鶴田浩二襲撃事件を引き起こし、主犯として全国指名手配になった。この事件以降、山口組の機嫌を損ねるとひどい目にあうという恐怖を芸能界興行界に定着させた。


神戸芸能社時代
1955年、山口組興行部の名称を神戸芸能社と称するようなる。1957年4月1日、法人化が必要となったため株式会社として正式に登記した。資本金は百万円であった。社長は山口組三代目組長田岡一雄。取締役は妻の田岡文子、舎弟の岡精義。監査役は山沖一雄。定款の事業目的は「巡回興行の経営、芸能に関する研究、前各号に付帯する業務」とうたった。月給は田岡組長が25万円、山沖が15万円であった。

1958年6月[1]、田岡が新設された「ひばりプロダクション」の副社長に就任した。美空ひばりの他に田端義夫、高田浩吉の興行権を独占した。この3人の巡業には田岡自身が同行することも珍しくなかった。他に傘下に集まった有名芸能人には、川田晴久、松尾和子とマヒナスターズ、三波春夫、村田英雄、坂本九、橋幸夫、舟木一夫、三沢あけみ、里見浩太郎、山城新伍らがいた。

1958年から1965年にかけて田岡組長は人気絶頂を誇った日本プロレス協会の副会長でもあった。

大阪、兵庫、中国四国の芸能・スポーツ興行は山口組の了解なしにはできなかったという。

1964年度の神戸芸能社の興行収益は1億3千万円を超えた。これは1958年度の6倍であった。

1965年、警察庁の広域暴力団壊滅作戦(いわゆる「第一次頂上作戦」)が始まり、暴力団の興行は公共施設から締め出されることになった。これにより、神戸芸能社は休眠会社となった。


その後
1971年、田岡組長の息子田岡満が芸能事務所ジャパン・トレードを設立。

1973年、田岡満がプロデュースする東映映画「山口組三代目」(田岡一雄原作、高倉健主演)が大ヒット。

1974年、田岡満がプロデュースする東映映画「三代目襲名」(田岡一雄原作、高倉健主演)が大ヒット。同年11月、警察は、これらの映画が山口組の資金源になっているとして東映本社と関西支社、プロデューサー俊藤浩滋宅、田岡一雄宅、田岡満経営のジャパン・トレードに家宅捜索を行った。東映の岡田茂社長は、予定していた「山口組三代目 激突篇」の製作を中止。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月13日 18:38に投稿されたエントリーのページです。

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